気まぐれ映画評『レ・ミゼラブル』 気まぐれ映画評
今年最初の気まぐれ映画評は、
『レ・ミゼラブル』です。
原作は、ビクトル・ユーゴーの小説『ああ無情』。いまさら説明するまでもない歴史的な名作であるが、私は未読。「パンを盗んで長い間捕まっていた人の話だよね」くらいの知識で観たのだが…。これはすごい。エンドロールを観終わった後も席を立てない。涙が止まらない。もうただ「圧倒的」。もともとはミュージカル作品だけに、幕が下りた瞬間には思わず拍手をしそうになるくらい。スケールがハンパでない。
登場人物みな、まさに「ああ無情」。悲劇が次々に襲ってくる。時代も貧富の格差にあえぐ19世紀のフランス。色でいえば灰色の時代、か。時代に翻弄される登場人物たち。決して幸せな結末を迎える者ばかりでないが、一人ひとり丁寧に、しっかりとキャラクター設定され、どんどん感情移入してしまう。そして、ラストは真っ赤な旗がフランスを包む。
ミュージカル映画ではあるが、ダンス、台詞なしで、全編「歌」のみで演出することで、歌うことへの違和感みたいなものも一切ない。ヒュー・ジャックマン、アン・ハサウェイ、ラッセル・クロウらスターたちが、見事に歌いきった。
妹のためにパン一個を盗み19年服役したところから始まった、波乱万丈のバルジャンの生涯。許し続けることにより、最後に自分が許されたラストシーン。愛、贖罪、救済、…。人間として大切なものが2時間40分に凝縮されているといってよい。
最高の作品だ。
気まぐれ映画評『007 スカイフォール』 気まぐれ映画評
気まぐれ映画評第10回は、
007生誕50周年記念を飾る
第23作『007 スカイフォール』です。
私は『007』シリーズが大好きで、全作品のDVDを揃えるほどの大ファン。だけれど、ピアース・ブロスナンがボンドを演じていた頃には、奇想天外な秘密兵器があまりに現実離れしてしまい荒唐無稽、苦笑いしてしまうことが増えていた。そこに、ダニエル・クレイグ演じる「6代目」登場。ここ3作品は肉体的強さとボンドの内面にスポットを当て、映画そのものの面白さを取り戻した感がある。
クレイグ=ボンドの3作目だが、相変わらずオープニングから魅せる。「今作もカッコいいね〜」と思っていたら、「老い」が一つのテーマで、スパイは古い、ボンドもその上司Mも煙たがれるようになっていた。わかりやすい敵の存在以外に、身内にもボンドの敵がいるわけだ。この身内に潜んだ敵と思われた人物が、最後にはスパイスになってこの映画に味付けされるのだが。
今作でボンドと戦うシルヴァは、かつてはボンド以上にやり手だった元諜報員。つまり、どちらもMの部下である。両親を早々に亡くしたボンドにとってMは母であり、それはおそらくシルヴァにしても同じ。母をめぐる息子の対立、表と裏の関係にあるボンドとシルヴァ。ボンドは銃を持ったMと共に戦うが、シルヴァは銃を持ってMと頭を並べ、同じ銃弾で死のうとする。歪ん仮想親子の愛憎劇。親子関係という、人間だれしも身近に感じる愛だからこそ、ボンドの内面により深く触れられる気がする。
ボンドカーは懐かしい「アストンマーチンDB5」。これは1964年に公開された『007 ゴールドフィンガー』に登場した一台。Mだけでなく、ボンドに最先端の武器を与えるQを丁寧に描き、ボンドの生い立ちまで掘り下げた『スカイフォール』。「趣味は復活することだ」というボンドのセリフの意味がわかってくる。生誕50年、ボンドは原点に帰り、復活したのだ。
気まぐれ映画評『人生の特等席』 気まぐれ映画評
データ野球の『マネーボール』(2011米、ブラッド・ピット)とは真逆の、アナログ人間でプロ野球の伝説的スカウトマン・主人公ガス(クリント・イーストウッド)。目と耳で選手を見つけるオールドスタイルは、デジタル人間に馬鹿にされ苦しい立場に追い込まれていくが、友人と娘がそんなガスを救う…、というよくある物語である。が、イーストウッドの存在感がこの映画をまとめ上げ、魅力的な作品に仕上がった。
オープニングでは尿のキレが悪くなったイーストウッドのシーンから入り、視力は落ち、椅子につまづき、車はぶつけ、と、カッコ悪い「ご老人」。そのイーストウッドが、娘にちょっかいをかける男には黙っちゃいない。ビール瓶を叩き割り、そしてぶっ飛ばす。カッコいい「イカしたじいちゃん」。素晴らしい表情、演技。さすが。
今の時代にパソコンも使えないプロ野球のスカウトなんかいるのか、そんな甘くはないだろう、うまく行きすぎでしょ、と思う気持ちは湧き上がったが、結局、野球は人間のやることなのだ。データだけで割り切れないから面白いのだ。ピーナッツボーイがドラフト1位のバットをかすらせもしないシーンは痛快だ(ファウルくらいはできるだろうとも思ったが)。
メディアは、ぜいたくな生活をしている人のことを「勝ち組」と言い、勝ち組こそ「人生の特等席」であるかのように伝えるが、幸せとは人それぞれ。他人が見れば「三等席」でも、本人にとっては「特等席」だということもある。「個性」「個性」と言うわりに、横目で他人と比べる人。そして、歳を取っているだけであたかもその人が無能であるかのように叩く人。人と比べてばかりでは、他人を攻撃するばかりでは、「人生の特等席」は見つからないのでしょう。
気まぐれ映画評『黄金を抱いて翔べ』 気まぐれ映画評
第8回は
『黄金を抱いて翔べ』(11月3日公開」)です。
高村薫の原作が発表されたのは1990年。私が読んだのは大学生のとき。だから、時代設定が「古い」。携帯電話が出てこないんだから、2012年の視点から見ると、違和感あり。しかも、「金塊」を盗むなんていつの時代だよ。しかも、ダイナマイトで銀行の地下金庫を爆破して…。
ところが、この前近代的な雰囲気によって、人間臭さが画面から滲み出してくる。原作を読んでも簡単には理解できない登場人物の背景。これを2時間の映画で表現するのは大変難しく、油断すると「エッ!?」となってしまうが、それでもうまくまとめられている。この人たちは何でつながっているの?と思ったりもしてしまうが、そんなことはおかまいなしに、映画が持つ男臭さや、舞台である大阪が持つ泥臭さに引き込まれてしまった。
妻夫木聡、浅野忠信、桐谷健太、溝端淳平、チャンミン(東方神起)らいわゆる「イケメン」ぞろいだが、アイドル性はゼロ。ドロドロした人間の本性、欲望にスポットを当てている。現代なら、イケメンたちがもっとITを駆使してスマートな犯罪ものに仕上がるのだろうが、繰り返しになるが、ダイナマイトで爆破して「金塊」を盗むという古臭い設定こそ、この作品の肝であり、多くの人がスマートフォン画面を指で触る時代に公開する意義を感じる。暴力、欲望、ああ、人間臭い。
気まぐれ映画評『天地明察』 気まぐれ映画評
第7回は
『天地明察』です。
江戸時代に改暦に挑んだ天文学者・安井算哲(渋川春海)にスポットを当てた『プロジェクトX』であり、『情熱大陸』である。算術とか天文学とか、私はまったくの門外漢であるが、へぇ〜と感心することばかり。狂気じみた熱意と集中力、そして仲間の応援が、大事業を成し遂げるためには必要であることは、いつの時代も変わらない。しかし、江戸時代という身分制度の確立した時代に、一介の碁打ちが、改暦という大事業を成すというストーリーは痛快であり、また、その情熱には拍手喝采。保科正之、徳川光圀という歴史上の人物の卓見もまた見事。関孝和は周りの応援があれば、算哲よりも先に改暦を成しえたかも?もちろん、史実と違うところはあろうけれど。
改暦にあたり、公家との勝負を庶民の娯楽に落とし込み衆目を集め、そして挑むあたりが、映画というエンターテインメントとして飽きさせない。「日食」は起こるのか起こらないのか。今ならネットですぐにわかることに、自身の命を賭けた算哲。「命懸け」とはまさに算哲の生き様をいうのだ。
さわやかな天文オタク・安井算哲を演じきった岡田准一が良い。そして、算哲の妻・えんを宮崎あおいも好演。
冲方丁(岐阜県各務原市出身)の原作を読了していた私も大満足の作品だった。