『山本昌史くんを偲んで』 日々
1991年4月、野球部への入部を希望する新入生が集まった教室に現れたおまえは、パンパンの体、大仏のようなヘアスタイルで、「どこのオッサン?」とみんなが衝撃を受けた。同級生とは思えないおまえのあだ名は「山本さん」。同級生なのに「山本さん」、野球部以外のやつにもそう呼ばれていたな。
「甲子園を目指す」と、大きな声では言えないような野球部だが、それでもおれたち13人はそれなりに頑張った。いざこざもあったが、それでもいいメンバーで野球をやれたと思うわ。いまだに毎年集まる期なんて少ないらしいからな。おまえは2年の夏にグラウンドには立てなくなった。病気だから仕方がないとおれたちは思ったが、大好きな野球を取り上げられたことは、山本さんもさぞ悔しかっただろう。最後の夏、背番号はなくてもおまえは一緒に戦ったし、おれたちは一緒に野球をやっていたと思ってる。甲子園だけが高校野球ではない。
山本さんはカッコつけでキザなんだよ。大風呂敷を広げるし。お通夜と葬式で流れたおまえの写真、笑っている写真が一枚もない。なんか斜に構えちゃって、物憂げな感じで。太ったオザキか、おまえは。素直でない山本さんのものの言い方にイラッとし、それをおれたちにイジられるわけだが、それでも嫌われたりしなかったのはおまえの人柄なんだろうな。右中間の打球を追って朝礼台に激突した話、外のスライダーに大根切りのようにバットを出しグラウンドに穴が開いた話、「腹が痛え」と言っていたのに青木をカップラーメン買いに行こうと誘った話、森嶋との冗談の様なとんでもないキャッチボール&トス打撃、バットを横にして自転車に乗り、車に引っ掛けられそうになった話…。毎年、年末に集ると、おまえの話題が5割。笑わせてくれたわ。
福岡の出張から戻り、自宅の電話を珍しく取ってみたら、びっくりした。おまえのお父さんから「昌史が亡くなりました」だって。慌てておれがみんなに連絡を取り、お通夜には10人が集まったよ。長野は長野から(相変わらずあいつは長野にいる)、久光は福井から駆けつけた。お通夜の後にみんなでファミレスに行ったのだけれど、ちゃんと山本さんの分のグラスも用意したよ。コーラをなみなみと。飲んだか?そういえばみかんの缶詰を凍らせて一人で食べてたな、暑い日の練習前に。葬儀には土屋とおれが行った。おまえの骨、とても病人だったとは思えないくらいしっかりしてた。バック転ができるおまえは「身軽なデブ」と言われていたが、青空におまえが煙となって吸い込まれていったわ。
4月1日、おれが結婚報告のメールをしたとき、「年内に岐阜に帰り、行政書士、社会保険労務士を目指します」と返信してきたじゃねえか。遺体で帰ってくるとは聞いてなかったぞ。なにしてんだよ。なかなか忘年会に顔を出さなかった山本さんだから、最後に会ったのは2年半前、2010年末か。今年からはずっと出席だな。おまえの写真を長村の店に持っていくよ。
あの世で好きなだけバット振っとけよ。おれの右肩もあの世に行くときには治っているだろう。勝負しよう。三振奪ったるわ。