『稲葉さん、吉見選手…忘れられない一日』 日々
2008年、当時は東海ラジオの野球解説者だった稲葉光雄さんが、ドラゴンズの沖縄春季キャンプ取材から帰ってきたときのこと。稲葉さんが興奮していた。「大澤さん、スゴいピッチャーがいたよ。吉見。素晴らしいフォームで投げていた。ブルペンの中でピカイチ」と早口で言った(野球のことになると熱くなるから…)。開幕前の番組でも、「注目の選手は吉見」と言っていた。稲葉さんの理論を体現した理想的な投げ方、それが吉見一起選手の投球フォームだったそうだ。ただ、吉見選手はドラフト希望枠入団だったとはいえ、そのときは通算1勝の投手。稲葉さんが推すこの吉見という投手、さあいくつ勝つのだろうと、私は期待半分で注目した。
その春季キャンプ、ブルペンで投球練習を終えた吉見一起選手は、球団関係者を通じ、ネット裏の見知らぬ?中年男性に呼ばれた(注・稲葉さんによれば、吉見選手はそのとき「誰だろう?知らないオッサンだな…」みたいな顔をしていたと言っている)。それが、稲葉さんと吉見選手の初対面だった。見知らぬ中年男性は「いま、君は素晴らしいフォームで投げている。今年、間違いなく勝てるから、自信を持って続けなさい」と言った。このときの稲葉さんと吉見選手の会話は、その後、稲葉さんから自慢話のひとつとして、何度も何度も聞くことになるのだが(笑)。
そして、2008年、吉見選手は初の10勝を挙げ、以後2けた勝利を4年も続けている。
(写真・ナゴヤドームに設けられた弔問記帳台)
「稲葉さん、ロンドンオリンピックが終わりました。きょう8月15日は終戦記念日です。でも、今日という日が、残念ながら稲葉さんの閉会式になってしまいました」という言葉で始まった、鈴木孝政2軍監督の弔辞。鈴木さんがプロ入りした前年、20勝を挙げてバリバリの主戦投手だった稲葉さん。2人の思い出を、涙で言葉に詰まりながら、悔しさを押し殺しながら語った鈴木さん。私はハンカチが手放せなくなりました。喪主である彰子夫人。「いつもと同じように『いってきます』と家を出たが、『ただいま』は聞けませんでした」「家では、私だけの野球解説者でした」、素晴らしいご挨拶だった。平凡な日常こそ幸せなのだと改めて教えてもらった。そして、ユニホーム姿でお別れをする全コーチ、選手、スタッフ。稲葉さんが「あいつは全然なってない!」と怒っていた若手選手ほど、きょうは涙を流していた。人目を憚ることなく泣いていた。愛がないと怒れない。その愛はきちんと伝わっていた。そして、若手だけではない。ベテラン選手も涙を流していた。稲葉さんの棺を、涙を浮かべながら、山本昌選手が、山﨑選手が運んでいたのが見えましたか?
(写真・8月2日、ナゴヤ球場のマウンドで振りかぶる稲葉さん)
きのう、登板前日は報道陣とはほとんど話をしない吉見選手が、私に話しかけてきた。「大澤さん、ブログを読みました」。稲葉さんの亡くなった翌日、私がブログに載せた拙い文章を、吉見選手が読んでくれたそうだ。登板前日、吉見流の調整に配慮すれば、ゆっくり話す時間はない。でも、吉見選手が「僕、ひとつ心残りがあるんです。稲葉さんに『勝ったときのドアラのぬいぐるみ、もらえないか』と頼まれていたのに、渡していなかったんです」と。私は「そうか。でも、あした勝てば最高のプレゼントでしょ。僕も実況だから、絶対に勝ってくれよ。頼むな」と言ってしまった。変なプレッシャーをかけてはいけないとは思いながら、言ってしまった。言わずにいられない、なぜなら、エース・吉見一起だから、稲葉さんが「最高」と認める吉見一起だから。吉見選手は「頑張ります。やりますよ」と返してくれた。
火曜日の時点で、きょうの中日対巨人、吉見選手が必ず勝ってくれると信じていた。
(写真・同じ日、おどける稲葉さん)
稲葉さん、観ていましたか。聴こえましたか。さすが、稲葉さんが「最高」と認める投手ですね。吉見選手がジャイアンツ相手に完投勝利ですよ。
吉見くん、やっぱりスゴイわ。数時間前に稲葉さんと別れを告げても、マウンドに立ったらいつも通り投げる。さすが「最高」の投手です。
大澤アナウンサー。吉見選手のマネをして、冷静に冷静にと思いながらマイクに向かったけれど、最後は涙を堪えるのに必死でしたね(苦笑)。きのうはほとんど眠れなかったけれど、よく頑張ったと思います、今夜は。
頭の中を何度も何度も巡るきょうの出来事。ここ数日の出来事。アナウンサーになって15年、忘れられない一日になりそうだ。