『火花』 日々
お笑いコンビ・ピースの又吉直樹さんが書いた『火花』。
第153回芥川賞作品、
発行部数209万部に達したこの作品を読んでみました。
【以下、感想(ネタバレあり)】
芥川賞=純文学の新人に与えられる賞。純文学=大衆文学に対して、読者に媚びず純粋な芸術をめざした文学作品。純文学を書く上の要件のひとつに「正確に書くこと」だと、中条省平氏(学習院大文学部教授)の著作にはあり、そのため純文学の作品には私小説が多いそうだ。正確に書くためには身の回りのできごとを書くのが近道だから、おそらく『火花』は又吉さんが見た、経験した芸人の世界の話ということになるだろう。売れない芸人「スパークス」徳永と、その師「あほんだら」神谷。描かれたふたりとふたりを取り巻く世界は、きっと現実のお笑い界を、芸人の心理を正確に描いている、また描こうとしているはずだ。又吉さんが文字で表現した「芸人の世界」は活き活きとしていて、それ故にあっという間に引き込まれた。良いことなのかどうかわからないが、過去の芥川賞作品と比べると圧倒的に読みやすかった。
なぜ『火花』というタイトルだったのだろう。花火大会に始まり、花火大会で終わるこの小説のタイトルが『花火』でなく『火花』であるのは理由があるはず。それは徳永と神谷のふたりの関係、火花が散りひりひりするような心の交流、魂のぶつかり合いがこの本の幹であるからではないか。偶然か意図してか、徳永のお笑いコンビ名は「スパークス」、つまり「火花」だ。
あまりにお笑いに対して純粋であり、それ故に周りに理解されない神谷。その神谷の純粋さは、世間の常識からのかい離ゆえに狂気をはらむ。実生活では神谷のような人間を、あいつはバカだ非常識だと笑い、嫌う人間はたくさんいるだろう。純粋であることは決していい面ばかりではないと思うし、生きづらいとも思う。私には真似できないし、真似したくもない。しかし、その純粋さ、常識はずれの狂気には激しく惹かれる私がいる。あなたの身の回りに神谷はいませんか? 徳永と神谷の間で発生した火花。それは言い換えれば理想と現実の間で発生した火花である。
私小説とは残酷なものだと思う。「芸人さんというのはこれだけの苦悩があり、努力があるのだ。理想と現実のギャップに悩んでいるのだ」と、お笑い芸人の又吉さんに書かせてしまうのだから。「私はこんな頑張っているんです」と口にすることって、恥ずかしくないですか? 身を削るとは、小説家を正確に言い表している、いや、小説家のためにこそある言葉なのかもしれない。