山本一義さんを偲ぶ
10月3日、カープの4番として長く活躍され現役引退後は当時の近鉄でバッティングコーチ、ロッテで監督、カープでヘッドコーチなどを歴任された山本一義さんが9月17日に亡くなられていたことが公表されました。
山本さんがカープでヘッドコーチに就任された1994年に知り合うご縁を得て、特に私が広島出身ということを知ってからはカープの名古屋遠征のときには毎日のように食事や飲みにつれて行って頂きました。
二人ともべたべたの広島弁でそれこそ日付が変わるまで杯を交わしました。
入社するまで野球はただ見るだけ、スポーツANとしてまだ駆け出しの私に時に厳しく、時にやさしく、本当にかわいがってくれました。
私の亡くなった父と一歳違いということもあり、本当の父親のような存在でした。
山本さんは私のことを「むら」、私は山本さんを「かずさん」と呼ばせてもらっていました。
今でも低いドスの効いた声で「おー、むらー」と私を呼ぶ声が忘れられません。
亡くなってこんなに時間が経ち、既に家族葬を済ませているということですのでここでお別れをさせて頂きます。
かずさんへ
かずさん、かずさんとの一番の思い出は「むら、野球を1000試合見ろ。プロ野球じゃなくてもいい。高校野球でも草野球でもいいから野球を1000試合見ろ。そうすれば野球の何たるかが見えて来る」と言われたことです。
まだスポーツANとしての第一歩を踏み出したばかりで右も左もわからないことだらけだった私は、かずさんの言葉を信じて頑張って数を数えながら数年かけて1000試合突破しました。
広島出張の際、既にユニフォームを脱いで解説者になられていたかずさんに「1000試合以上野球見ました」と報告すると「何でや?」と意外な答え。
事情を説明すると「わしそんなこと言うたんか。我ながらええこと言うのー」といって豪快に笑い飛ばされました。
そのときは唖然としましたが、今となってはこれが一番の思い出です。
あれから20年近く。見た試合の数は1000試合をはるかに超えましたが私に野球の何たるかは見えているのでしょうか。
それを確認したくても、もうそれも叶いませんね。
原爆で焼け野原となった広島での子供時代の思い出に始まり、超がつくほどのスーパースターだった高校、大学時代の話し、一旦は高校の大先輩鶴岡一人監督率いる南海に入団を決めながら、後の総理大臣、広島出身の当時の通産大臣池田勇人氏に直々に呼ばれカープ入団を懇願されて故郷に骨を埋める覚悟を決めた話し、1975年初優勝に至るまでの裏話、ロッテ監督時代、落合博満に三冠王を取らせるための苦労話、江藤、金本、前田が入団してきて鍛えた話し、バッティング論、コーチ論などなど、かずさんがしてくれた話しは野球のことはもちろん、人の生き方に至るまで本当に数知れません。
その一つ一つがキラ星のような思い出です。
私の一部は山本一義によって作られたと言っても間違いありません。
正義感が強くて曲がったことが大嫌い、頑固で一本気。
そのくせやさしくてとてつもなく懐が深い。
そんなかずさんが大好きでした。
ここ数年はマツダスタジアムで年一回くらいしか会うことが出来ませんでした。
もっともっとかずさんの話しが聞きたかったです。
9月17日といえば、私がたまたま出張で広島にいた日ですね。
これも何かの縁だと思います。
最後の最後まで「水を差したくない」と自分が亡くなったことを伏せるなんてカッコつけて、かずさんらしいですね。
かずさん、私は本当に本当にかずさんのことが大好きでした。
かずさんに会えて幸せ者でした。
これからも出来の悪い私を見守って下さい。
闘病、大変だったと思います。ゆっくり休んで下さい。
合掌