新幹線の車窓から info
1月27日から系列の会議で東京に出張しました。
この日は朝から抜けるような青空。
名古屋市内は雲ひとつなく、朝日がまぶしい中出発しました。
新幹線で東京に向かう際、当然ですが富士山のそばを通ります。
野球の出張などで年に何度か通りますが、20年以上の経験からすると
きれいに見えることは意外と少ないというのが私の実感です。
晴れていても富士山の中腹から上に雲がかかっていたり
頂上付近しか見えなかったりと、何かしら雲の影響を受ける事が多いのです。
この日はあまりにもよい天気だったのですが、名古屋からは200Km近くも先のこと。
「静岡でも雲がなければいいが」と思いながら車窓からの景色を見ていました。
浜松を過ぎても雲はありません。
期待に胸膨らませる中、いよいよ富士山が近付いてきました。
すると

期待にたがわず見事な光景でした。





スマホで撮影しましたが、近くの景色が新幹線のスピードに
ついていけないのか、微妙に流れて写っています。
本当に偶然ですがスピードを感じる写真になりました。
翌日、帰路でも同様にすばらしい富士山を見ることができました。
帰路の写真もどうぞ。




以上、あまり代わり映えしませんが富士山写真展でした。
山崎さんパーティー続き info
山崎さんのパーティーの話題、続きです。
中日時代からお互いに中日を離れてからもとても仲がよいのが
この選手。
阪神タイガースの福留孝介選手です。
移籍後も一緒にハワイで自主トレを行うなど、深い絆でつながっています。
「山崎さんにプロの何たるかを教えてもらった。ヤマサキイズムを後輩たちに
伝えて行きたい。」と、プロ野球界での山崎さんの後継者となることを
しっかりとした口調で語ってくれました。
さて、プロ野球選手ではなく壇上に上がった唯一の方が
去年のゴルフ日本シリーズで悲願のプロ入り初優勝を飾った
宮里優作選手。
妹の藍さんが先に大活躍したため、「藍ちゃんのお兄さん」という
呼び方が定着してしまいましたが、優勝インタビューでも
「これからは”藍ちゃんのお兄さん”ではなく、一人のプロゴルファー
宮里優作として認知してもらいたい」とコメントされていました。
プロ入り10年目での悲願の優勝だったわけですが、山崎さんも
プロに入って活躍するまでは数年の雌伏の時代がありました。
だからこそ、同じアスリートとして共感する部分が多いと話されていました。
ちなみに山崎さんと宮里選手の接点は、楽天時代に仙台の知り合いから
紹介されたことがきっかけだそうです。
藍ちゃんもそうですが、宮里兄弟は沖縄から仙台の東北高校に進学しているので
仙台は第二のふるさとなんですね。
どこに行っても素敵な人の輪を築いてきた山崎さん
その人柄を存分に感じるパーティーでした。
山﨑武司プロ野球27年の軌跡 info
去る1月19日、名古屋市内のホテルで昨シーズン限りで
27年に渡る現役生活に別れを告げた山﨑武司さんの
引退記念パーティーが行われました。
山崎さんの母校、愛工大名電高校野球部OB会の主催で
私は宮地さん、神野さんと一緒に司会をさせて頂きました。
学校関係者はもちろんのこと、プロ野球関係者や友人、知人
総勢1,640人もの方が参加され、盛大なパーティーとなりました。
中日でプロ生活をスタートして27年、その重みを実感できる
錚々たるメンバーが集まりました。
まずはこの方。
山﨑さんがチームリーダーとして二人三脚でチームを支えた
名将、野村克也さん。
会場を引き付ける話術はさすがです。
来賓の方々の挨拶に続いては
にぎやかに鏡開きで盛り上がります。
この日は、ドラゴンズの選手、関係者はもちろん
楽天時代のチームメートも多数駆け付けてくれました。
震災直後の、あの挨拶は今でも印象的な嶋基宏選手。
今や球界を代表する選手の一人。
受け答えも人を引き付けるものがありました。
そして会場が最も注目していたのはこの方
先日、ニューヨークヤンキースへ7年契約161億円での移籍が決まった
マー君こと田中将大投手。
この時はまだ移籍先がどこになるのか全く白紙の状態だったので
本人から何か一言でも引き出そうと大勢の報道陣も詰め掛けました。
私も野球報道に携わる一人として興味がないわけはありませんが
田中投手は山﨑さんのためにわざわざ名古屋に来てくれたわけだし
なんといってもこの日の主役は山﨑さん。
「今日はデリケートな話題には一切触れません。」とお断りしてから
インタビューしました。
しかしあの若さで貫禄さえ感じさせる堂々たる存在感。
ももクロの話をしているときなどはお茶目な面を見せますが
こういった席ではやはり人とは違う何かを持っていると
改めて実感しました。
この先、田中投手にインタビューするチャンスがあるかどうかは
わかりませんが、私にとってもよい思い出になりました。
ヤンキースには我が後輩、黒田投手もいます。
今年、ヤンキースでも圧倒的な力を見せ付けて欲しいですね。
ご活躍をお祈りいたします。
熊本城にて info
大天主、小天守を見学した後は宇土櫓へ。
こちらはご紹介したとおり本物の建物なので
入り口で靴を脱いでの見学です。

写真左側が城壁替わりの長い廊下。
廊下の一番壁側には石垣を登ってくる敵に石を落とすための穴、
壁には鉄砲を打てるように設けられた狭間(さま)と呼ばれる穴があり
妙な生々しさがあります。
またこの廊下、櫓に向かって緩やかに下っています。
あれだけのお城を築く能力を持った先人たちのことですから
まさか「作ってみたらまっすぐじゃなかった」なんてことは
ありえません。これも戦略的な意味があるのでしょう。
靴下越しに板張りの冷たさが伝わってきます。
手摺りがないと怖いくらい急な階段を登り、最上階に到着。

宇土櫓からみた大小天守閣です。
このような櫓がまだ他にもあったといいますからその規模がわかります。
続いて見学したのは「本丸御殿」。
名古屋城も現在本丸御殿を再建中ですが、熊本城も本丸御殿を再建しました。
名古屋城は先の大戦時の空襲で焼失したため、本物の障壁画が残っていたり
詳細な図面があるので本当の意味で「再建」ですが、熊本城の場合は前述の
西南戦争で天守閣が焼けた際、延焼して全焼したため、厳密な再建ではないそうです。
また、厨(くりや、いわゆるトイレ)などは復元対象から外されています。
なので同じ「本丸御殿再建」といっても名古屋と熊本では似て非なるものですね。
なんといっても本丸御殿の目玉はこちら

中国の三大美人の一人、王昭君(おう しょうくん)の名前がついた「昭君の間」。
金箔がふんだんに使われた、まさに豪華絢爛な部屋です。
この部屋は謁見の間のさらに奥にあるのですが、一説によると熊本城を築いた
加藤清正が、豊臣秀頼を迎えるために作った部屋だといわれています。
将軍として秀頼を迎えるための部屋なので、本当は「将軍の間」としたかったところ
徳川家康の目を恐れ、将軍(しょうぐん)の濁音を除いた昭君(しょうくん)とした、という
逸話が残っているそうです。
さて、熊本城に行った際天守閣に向かうときに必ず通るのが「闇り通路(くらがりつうろ)」。
熊本城の特徴とされるもののひとつです。
石垣と石垣に挟まれた通路で上に建物があるため本当に薄暗いトンネルのようなところ。
本丸御殿には今は天守閣前の広場から入りますが、本来は闇り通路の途中に
玄関代わりのかまちと階段があって、その階段を上がって出入りしていたそうで
通路の途中に階段なども復元されています。

最後は天主をバックに記念撮影。
1泊2日の駆け足旅行でしたが、充実した2日間でした。
荒木選手、本当にお世話になりました。
熊本城へ info
大黒やラーメンから歩くことおよそ1時間、
ようやく「熊本城→○○m」の案内表示が出てきました。
熊本城を訪ねるのは20年くらい前に、城に程近い藤崎台球場で
当時の横浜とドラゴンズがナイトゲームを行った際に行って以来。
詳細は覚えていませんが、当時どこかを工事していて全部は
見ることができなかった記憶があります。
町の北側から城に向かったので、ほとんどの観光客が城に向かうのとは
逆からのアプローチになりました。
石段を登りついたのが二の丸広場。

お堀越しの本丸。壮大な光景です。
さらに先に進み、チケットを購入。
入場料は700円でした。
石畳の曲がった道を登っていくと

天下の名城と呼ばれる熊本城の大天主、小天守が目の前に。
西南戦争の際、熊本城は政府軍の拠点となりました。
南から攻めあがってくる薩摩軍と対峙する中、戦闘が始まる前に
謎の火災でともに焼失しています。
失火、今で言う薩摩のスパイが放火した、政府軍が志気を高めるため
敢えて火をつけた、などなど諸説あるそうですが真相は謎のまま。
小天主から入城します。
天主前の広場では、名古屋城の「おもてなし武将隊」のような?
「熊本城おもてなし武将隊」がステージをやっていました。
名古屋発の「武将隊」、各地がまねしましたがなかなかどうして
結構な人気で200人くらいの見物客が声援を送っていました。
まずは小天守に上がります。
狭い階段を登って一番上に出ると、南側はこんな景色

これは天守閣の南西角にある「宇土櫓」。
櫓といっても他のお城なら天守閣でも遜色ない立派な建物です。
この宇土櫓は、先にご紹介した西南戦争で天守閣が焼けた際
風向きのお蔭で延焼を免れ、築城以来400年が経つそうです。
名古屋城とちがってエレベーターがないので(エレベーターがある
お城がむしろ特殊)小天守、大天主ともに昇り降りするだけで
足にきます。
体の衰えを感じつつ、国の重要文化財「宇土櫓」へ向かいました。