五輪とマイク 定期列車
霊長類最強に勝つ選手が現れた。
霊長類が進化したということだ。
リオ五輪レスリング女子53キロ級決勝。
うたた寝から覚めた眼をこじ開け、吉田沙保里と米国マルーリスの対戦を観た。
吉田の得意技を封じるマルーリス。アテネで金の吉田に憧れて競技を始めた。
受けて立った吉田。試合終了を告げるブザー。二人ともマットに臥せ泣いていた。
悔しいよりも清々しい。相手の強さを讃えよう。リアルタイムで観られてよかった。
とめどない涙が物語るのは、吉田にかかっていた重圧。
インタビュアーはどうマイクを差し出すのか。これも相当な重圧だったろう。
謝りつづける吉田に「そんなことはありませんよ」と声をかける。
惜しむらくは、勝ったマルーリスを語ることばを引き出せなかったことだ。
ことばのプロでも、予想外の展開や茫然自失の人の前ではことばを失う。
そこから出てくるのが本当のことばであったり、本当の心であったりする。
むろんことばを尽くさなくても構わない。気持ちだってマイクに乗るのだ。
「本当に、レスリングをやっていて幸せです」
ことばを捜した果ての一言で幸せになったのは吉田自身であり、私たちだ。
その後行われた63キロ級決勝。
勝った川井梨紗子が栄コーチをマットに二度、投げ飛ばす。
腹の底から笑えたのは、吉田の清々しいまでの悔しさがあったからだろう。
人間が極限に挑み、人類で喜怒哀楽を分かち合う。それが五輪なのだ。
今回はラジオで五輪を聴く機会が多かった。
これもまたラジオの限界、人間の限界に挑んでいるといえる。
例えば卓球。
コンマ数秒単位で打ち合う姿の描写など、ことばを尽くしても追いつかない。
これだというプレーに絞り、あとは台やラケットに当たるボールの音に委ねる。
ポイントがどちらに入ったかは選手の叫びや客席の歓声で聞き分ける。
実況者と聴取者が一つになって興奮と感動を分かち合う。それが醍醐味だ。
目の前に用意された原稿よりも、頭の中に用意した台詞よりも、
目の前で起きていることを伝える。これはできそうでなかなかできない。
競技がそうであるように、実況にも「勝つと思うな、思えば負けよ」がある。
吉田の4連覇を信じて疑わないところに現れた青天の霹靂。
頭が真っ白になっても伝えなければならなかった苦労は計り知れない。
事前に調べたことほどしゃべりたくなるのがしゃべり手の性。
その性をいかに柔軟にコントロールするかにこそ真髄があるといえる。
僕自身実況経験はほとんどない。
しかし、レポートやインタビューでこのような状況に遭遇することはある。
用意したストーリーに相手を乗せても、たいていはうまくいかない。
そこから飛び出した予想外のリアクションに自分がどう乗るか。
そのために用意したものを捨てることができるかどうか。
それがトークの面白さ、奥深さを左右する。
自分で決めすぎず、相手に委ねすぎず。
お互いの力を借りながら物語を転がしていくことができるかどうか。
スポーツとコミュニケーションには共通の根っこがある。
五輪とマイクを通して、またひとつ学ぶことができた。
霊長類最強を追求するアスリートのように、
霊長類を進化させてゆくようなことばの担い手でありたい。