マモルベキモノ 定期列車
愛する人?
愛する場所?
自分自身?
法律?
約束?
立場?
…守るべきものってなんだろう。
「伝える原動力は何ですか?」
あるジャーナリストに訊いた。
「家族団欒を乱すものへの怒り、ですね」
意外に思えたが、腑に落ちる答えだった。
家族という守るべき最小単位。たとえ一人でも。
それを乱される怒りがあるから声を上げるのだろう。
しかし「べき」という言葉にはどこか違和感がある。
SNSのやりとりでこんなコメントに出会った。
「わしは『べき』とは絶対言いません。
自分がしなさいというのではなく、
『一般論ではこうだよ』と言ってる気がするから。
『べき』を連発する人を信用する気になれません」
私たちは「べき」という使い勝手のいい言葉で、
主観的にも客観的にも取れる価値観を作り出し、
相手に押しつけているだけなのではないか。
今ニュースを賑わすのは「べき」のぶつかり合いだ。
守ろうとするものを自分に寄せたりすり替えたり。
あるいは守るものさえ盾にして平行線をたどるだけ。
一つ一つは熱いが、退いて見るとそらぞらしい。
正直こんな違和感を持ちはじめると、
何を語っていいのか分からなくなる。
せめて思考停止しないよう努めるくらいだ。
ただ、守るからには中身のないことはしたくない。
怒りが空虚にならないためにも。