ラジオと戦争 定期列車
戦後70年、ラジオは90年である。
玉音放送の音源を宮内庁ホームページで聴いた。
昭和天皇の声は今まで聴いた声よりも高く澄んでいた。
玉音自体は4分半だが、放送全体は正午から37分半。
御前会議やポツダム宣言のニュース解説が含まれていた。
“枠づけ”は当時のNHKの看板アナウンサー、和田信賢。
戦前、大相撲双葉山の連勝が69で止まった実況を行い、
戦後、クイズ番組の元祖「話の泉」の司会で人気を博した。
終戦の7年後、日本が戦後初めて参加を許された
ヘルシンキ五輪の取材団に選ばれるも帰途パリで客死。
40歳での早世は酒が祟ったためといわれている。
昭和16年、真珠湾攻撃の情報を取った和田。
第1回大本営発表の現場に携わったことになる。
昭和18年、学徒出陣の実況を任されたものの
本番1分前になって急遽後輩の志村正順アナに交代。
戦局の悪化を憂い酒が進んだのが原因だった。
遠く北千島での取材に臨んだこともある。
先の戦争は和田やラジオとともにあった。
戦後の番組編成はGHQの意向が色濃く反映された。
和田は見事に時代の波に乗ったともいえる。
なお志村は野球実況の基本を確立したことで知られ、
2005年にアナウンサー初の野球殿堂入りを果たした。
テレビ放送の第一声も彼が務めた。
和田とは対照的に2007年、94歳まで生きた。
関東大震災によるデマ拡散の反省から、
開局予定を前倒しして始まった日本のラジオ。
しかし皮肉にも情報の同時性と拡散性を逆手に取り、
人々を戦争に導いたメディアでもある。
一度転がりだしたものはなかなか押しとどめることができない。
圧倒的な信頼を担保されたものが背後にあるとなおさらである。
それが国家であり、新聞であり、ラジオであった。
ラジオの端くれに生きる者として、心の隅に留めておきたい。
テレビやインターネットに当てはまることも押さえておきたい。
信頼を失っても動きつづけるものは現代にだってある。
今年、特番「いくさ遺産 村の言霊」や
ニュースパレード夏企画「戦後70年」で、
戦争体験者の生の声を聴く機会に恵まれた。
声を次代に伝えるもどかしさも目の当たりにした。
印象に残ったことばが二つある。
「身内には話さないが、本当は誰かに話したい」
「(体験を話すことが)自己満足で終わっている」
世代や立場がほんの少し違うだけで、
記憶が断絶されたり意識が共有できない。
みんなで「いいね!」や「シェア」をしたはずが、
響きあうのは小さな囲いの中だったりする。
しかし「みんなの囲い」が大きくなると、
事は一気に進む。よくも悪くも。
日本という国は何かを始めることも大変だが、
始まったことを止めるのも大変な国である。
いいときに悲観して、ダメなときに楽観する。
伝統を重んじながら、新しいものに飛びつく。
切り替えると早いが、切り捨てられるのも早い。
時代にうまく乗った人はもてはやされ、
こぼれ落ちるとなかったものにされてしまう。
日本という国はそういう国である。
私たちはいつもそれを忘れる。
例えば満洲開拓団の存在がそうだった。
取材を通して初めて知るという体たらく。
こういうことがまだいっぱい散らばっているのだろう。
それらを拾い集めることもまた、役割であると考える。
昔も今も、情報は同じだけ転がっている。
昔も今も、問題はどう見つけて伝えるか。
きのう、いわゆる「安倍談話」を聴いた。
長さ、中身、伝え方。
人やメディアによってさまざまな受け止め方があった。
私自身にも理解できる部分とできない部分があった。
捉え方が一様ではない。
これはまことに健全なことではないか。
あとは受け止め方の違う者同士、
どう分かち合い、高め合うことができるか。
そして発信した者は賛同だけでなく批判にも耳を貸せるか。
放たれたことばはことばそのものだけでなく、
その後いかに磨かれ、語り継がれるかでも評価される。
「いくさ遺産 村の言霊」は次のことばで締めくくられる。
「ずっと私たちは学んでいく。
テレビでも新聞でも終戦記念日前は盛り上がるが、
終戦や戦後は記念日だけじゃないので」
よく言えば節目を大切にする。
悪く言えば一過性に終わる。
私たちやメディアに対する、
重大な警句として受け止める。
それさえできれば、日本はきっと悪くならない。
戦後70年、私たちはそう学んできたはずだから。