強く儚い者たち 定期列車
「大好きな◯◯さんの悪口を言った。許せない!」
ファンから束になって攻撃されることが時々ある。
これって集団的自衛権だよね。
そんな集団的自衛権を行使されたときって、
個別にやられるよりなんか腹が立つ。
朝の番組で空手有段者のスタッフに
無闇矢鱈に技を使うかと聞いたらNOと答えた。
当たり前だ。
喋りの仕事にだって言葉の暴力がある。
それをコントロールするのが命綱。
失敗は大きな痛手になるのを知っているからだ。
己の力を知って事に臨んだ方が健全だ。
知らないから強く見せたり抜け道でお茶を濁そうとする。
だからコントロールできなくなる。
解釈で本質を変えることの問題点は、
他者にもその余地を与えることにある。
これまで我が国は「誰か」に守ってもらっていた。
これからは「みんな」で守ろうという。
主語が「誰か」や「みんな」にすり替わると思考が停止する。
軍隊よりも思考停止のほうがよっぽど暴力装置の気がしてならない。
この事態を招いたのは
総理や自民党や公明党や野党や政治や社会や世論、
つまり「誰か」や「みんな」のせいである。
そして同じだけの責任が「自分」にもある。
そう思う力があればこの一件、騒ぎ立てずとも乗り越えられる。