源石談話 定期列車
ほとんどの源石が広島上空に消えた。
70年前のきょう、午前8時15分。
当時、源石姓のほとんどが広島市内で暮らしていた。
国民学校1年生だった父は奇跡的に難を逃れた。
夏休み中、身を寄せていた親戚宅で悪戯の限りを尽くし、
兵庫県尼崎市の自宅に強制送還されたのである。
原爆投下1週間前だった。
エピソードを父から聞いたのは46年後。
父53歳、息子20歳。期するものがあったのだろう。
原爆投下後、兄たちと再び広島入りした父。
駅から何もない街並を見渡した心境は如何ばかりか。
親戚宅の跡地に佇む7歳の胸に去来したものは何か。
以来、生かされている幸運の中に自分を置いている。
しかしなんとなく置場に困っていたのも確かである。
そんな中、戦争体験者の声で綴る番組を作る機会を得た。
岐阜県東白川村を舞台にした「いくさ遺産 村の言霊」。
出兵した村人、満州開拓に旅立った村人、見送った村人。
70代から90代の村人たちにマイクを向けているうち、
本人だけでなく、彼らにつながる人々の声が聞こえた気がした。
その向こう側に、自分につながるまだ見ぬ人々もいる気がした。
70年。
物も記憶も風化する。
戦争だけに限らない。
例えば小学1年生のとき読んだ関東大震災の記録本。
生々しさに恐怖したが、この時点で55年しか経っていない。
今より頻繁に流れていたテレビの原爆特番は33年前。
そこから倍以上の時間が経てば風化も致し方ない。
辛い体験ほど語りたくないものだと知った。
だからこそ今語らねばと思う人にも出会った。
100年経たないと冷静に語れないと話す人もいた。
戦争観が多岐にわたり、それゆえ物議を醸している昨今。
記憶の断絶を恐れる気持ちが、形はどうあれ私たちを動かしている。
語る前に聞く。聞く前に思う。
今の自分にできること。
だから今日は消えていった魂の数々に思いを馳せたい。
できればそこから一つでも多くの言霊に耳を傾けたい。
そしていつか、聞いたこと思ったことをわが子に伝えたい。