日本海縦貫線 定期列車
この言葉にピンと来た人はかなりの“鉄”である。
大阪と青森を日本海に沿って結ぶ鉄道路線の総称で、
正式には東海道本線、湖西線、北陸本線、信越本線、
白新線、羽越本線、奥羽本線の一部または全部を含む。
宮脇俊三は「北前船が陸に上がったよう」と表現した。
言うまでもなく、3月13日ラストランを果たした寝台特急
「トワイライトエクスプレス」は日本海縦貫線を走ってきた。
そのトワイライトエクスプレスに二度“乗った”ことがある。
一回目は1989年、運行を前に大阪駅で開かれた内覧会で。
プラチナチケットといわれた最後尾の展望客室「スイート」も見た。
今思えば貴重な経験をしたものだ。
二回目は1994年、就職活動中に正真正銘の“乗車”。
北海道のSTVを受けるため往路は敦賀からフェリーで小樽へ。
面接後、14時発のチケットを求めて札幌駅のみどりの窓口へ。
ダメもとだったが難なくゲット。上りは取りやすいと聞いていたが驚いた。
とはいえ最も安い「Bコンパート」。貧乏就活生だから仕方ない。
今では信じられないが飛行機はもっと高かった時代である。
面接の出来など忘れて興奮のままBコンパートの車内へ。
二段ベッドが二組向かい合わせ。ガラス戸を閉じると個室のようになる。
滞在10時間の札幌を定刻に発つとまもなく、恭しく車掌の検札。
「Bコンパートは他に誰もいませんから大阪まで自由に使ってください」
6000円あまりの寝台料金で22時間、4人分の“個室”を独り占めだ。
内浦湾の車窓を堪能し、日が暮れたあたりで青函トンネル初体験。
ロビーカー「サロンデュノール」で車掌の説明に聞き入った。
食堂車「ダイナープレヤデス」にも入ったが料理はとても頼めない。
深夜のパブタイムに潜りこみ、ビール一杯が精一杯。
それでも接客係は笑顔でグラスを運ぶ。
当時既に珍しかった食堂車で酒を飲めただけでも幸せだった。
この食堂車はかつて特急電車「雷鳥」につながれていたもの。
幼いころ父の北陸出張随行や家族の海水浴の折よく利用した。
父はビール、息子はハンバーグ。昭和の食堂車は庶民的だった。
装いは変わったがグラスを傾けながら懐かしさと贅沢さを味わう。
トワイライトが夜を駆ける青森から新潟にかけての区間は
時が流れて2001年、日のある時間に乗り通した。
この年廃止された特急「白鳥」。日本海縦貫線を半日かけて走り抜いた。
芭蕉が「憾(うら)むが如し」と評した象潟の水田に浮かぶ百の小島。
トンネルで長くは楽しめないがスリルある親不知の断崖。
明け方に青森を発ったと思ったら、もう夕暮れの大阪だった。
2012年には急行「きたぐに」で新潟から大阪まで親子3人夜行旅。
のりかえ≫またきてきたぐに
思えば日本海縦貫の旅はほとんど北から南へだった。
これら名優はすべて鉄路を去った。
新たな主役は北陸新幹線。ブリのような愛嬌ある車両だ。
乗れる日が楽しみだが一つだけ淋しいことがある。
日本海縦貫沿線の関心がますます西より東へ向かってしまうことだ。
昆布の佃煮文化や富山の薬売りは上方との結びつきが強かった。
就学や就職で北陸方面から来る人も多かった。
それが上越新幹線の開業で新潟と東京が近くなった。
さらに北陸新幹線で富山や金沢が東京志向になるだろう。
日本地図の上に新幹線路線図を描くとよく分かる。
東京を目指すのは構わないが「北前船」がないのはどこか淋しいのだ。
再び1994年、トワイライトエクスプレス。
寝台下段に寝っ転がり、就職活動の行方を案じながら
窓外に明滅する駅の灯を眺めつづけていた。
時折身を起こしては冴えない顔を闇にさらす。
まんじりともせずだったか多少まどろんだかは忘れたが、
22時間はあっという間でもなければ長旅でもなかった。
翌日昼の大阪駅で太陽の眩しさにクラクラしたことは覚えている。
北海道と本州が地続きになったのに、地に足が着かない感じだった。
翌年名古屋に腰を落ち着け、日本海とは縁の薄い日々を送っている。
どこか淋しいなどと言いながらまったく現金なものだ。
勝手な郷愁に浸ったがそれも列車が消えるゆえのものだろう。
それでもこれだけの記憶が呼び覚まされたのは偶然ではない。
「時間はいつだって地続きだ」
豪華列車の車窓に浮かぶ冴えない顔の貧乏学生に伝えたい。