悲しいから泣くんじゃない 定期列車
高校の恩師が去年、
「死について」の授業をしてくれた。
ポイントは3つ。
「死は体験できない」
「死は証明できない」
「納得しながら人は死ぬ」
のりかえ≫おとなの合宿(2) 2014年6月10日
特に三つめの「納得しながら人は死ぬ」。
先生は親を亡くしたとき、悲しい気持ちにはならなかったそうだ。
半年が過ぎ、ふと空を見上げると飛行機が飛んでいる。
その空の向こうに親がいると知ったとき、涙が止まらなかった。
こうして人は死を納得し、受け容れるのだという。
死は肉体的なものだけでなく、周りの人の内面にも定義づけられる。
まことに興味深い授業であった。
悲しみや苦しみのスケールが大きいとき、
人はそれをたちどころに把握し、認めることはできない。
できた瞬間に初めて悲しみや苦しみとして認識することができる。
周りも初めて向き合うことや寄り添うことができる。
東日本大震災から4年。
僕らはまだ悲しみや苦しみの入口にすら立っていないのだろう。
だから「向き合う」や「寄り添う」という言葉がそらぞらしく響く。
東海地方に暮らす者にあの震災は当事者ではないかもしれないが、
日本に暮らす者としてあの震災は当事者である。
その彼我が埋められないままここまで来たのではないだろうか。
70年前の敗戦だってそうかもしれない。
戦争を知る人知らない人の時空に橋を架けるのは容易ではない。
失った人もなかったことにしたい人も、
「納得していない」点で根っこは同じ気がする。
いつか受け容れる日が来ることを待つしかできないが、
その日が来ることを心のどこかで信じている。
とても悲しくて苦しいことではあるけれど。